妙長寺

山号は、海潮山妙長寺と号し、創建は正安元年(西暦1299年)、開山は日蓮聖人の弟子の日実上人で、日蓮聖人が、伊豆伊東に流される時に、船出した材木座沼浦に建てた寺がはじまりだと云われています。

山門
本堂

山門を入った右側に、伊豆流罪となった日蓮聖人の「法難御用船」の1/6 模型があり、本堂には、本尊の大曼荼羅御本尊や一塔両尊四士祖像や日蓮聖人、日朗、日実上人の木造坐像のほか、七面天女、鬼子母神、三面大黒天等多くの仏像が祀られています。日蓮聖人像には寛文5年(西暦1665年)の年紀をもつ胎内納入文書が残っているそうです。

境内には日蓮聖人伊豆法難記念相輪塔が建っており、また、鎌倉、逗子、三崎の漁師や魚商達の手による明治11年(西暦1878 年)建立の鱗供養塔があります。寺伝によると、弘長元年(西暦1261年)琵琶小路で幕府の役人に捕らえられた日蓮聖人は、材木座の沼浦から船出し、伊豆伊東の海岸にほど遠い俎岩(まないたいわ)に降ろされ、岩の上に置き去りにされましたが、付近で漁をしていた漁師船守弥三郎に救われたそうです。

日蓮聖人伊豆法難記念相輪塔
日蓮聖人像

この漁師の息子が、後の日実上人で、日蓮聖人歿後十八年目に鎌倉に上り、沼浦に近い丘の上にお堂を建てましたが、その後数度にわたり津波に流されたため、宗祖滅後四百年目の天和元年(西暦1681年)現在地に移転したと伝えています。この場所には、元天目上人が開創した畠中円成寺があったと云われています。

現在の山門と本堂は関東大震災の前の年建立のため土台が朽ちてきて危険なため 、古い山門、本堂が取り壊され、先代塚本英憲上人がお檀家からの浄財を頂き、 平成17年(西暦2005年)5月に落成した真新しいものです。

なお、妙長寺には、遠く鎌倉時代から続く施餓鬼会が、檀家の方々の手で今も継承されています。盆に帰ることの出来なかった精霊を供養ためのもので、お盆が済んだ直後の8月18日に行われるそうで、ご先祖にやさしい伝統的行事です。

文学案内板:妙長寺と泉鏡花

妙長寺には、明治24年(西暦1891年)の夏、泉鏡花が滞在していたそうで、彼の小説「星明り」に、外出した間に締め出されたという苦い思い出が、「妙長寺という、法華宗の寺の、本堂に隣(とな)った八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向って左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科という医学生が、四六(しろく)の借蚊帳(かりかや)を釣って寝て居るのである。声を懸けて、戸を敲いて、開けておくれと言えば、何の造作はないのだけれども、止せ、と留めるのを肯かないで、墓原を夜中に徘徊するのは好心持のものだと、二ツ三ツ言争って出た、いまのさき、内で心張棒を構えたのは、自分を閉したのだと思うから、我慢にも恃(たの)むまい。」と書かかれています。

注意書