臨済宗建長寺派の寺で、山号は扇谷山といいます。もともとは真言宗のお寺でしたが、建長5年 (西暦1253年)藤原仲能がここに七堂伽藍を再建しました。しかし、その時の七堂伽藍は、元弘3年(西暦1333年)の鎌倉幕府の滅亡と共に焼失しました。その後、応永元年 (西暦1394年)鎌倉公方足利氏満の命令を受けた上杉氏定が、心昭空外を招いて再建しました。
寺宝には腹部に薬師の面部を納めた薬師如来坐像などがあります。
山門の右側に、和歌の一節を名の由来とする底脱ノ井があります。その詠み手は安達泰盛娘とも、上杉家尼ともいわれており、鎌倉十井に数えられています。
現在の本堂(龍護殿)は、関東大震災後、大正期に再建されたもので、薬師堂は、江戸時代の安永5年(西暦1776年)に浄智寺から移され、逆に、山門は、平成14年(西暦2002年)に新築されたもので、新築の際に、十五世紀の半ばすぎに建てられたと伝えられる旧山門は、貴重なものであるとして、厚木市幸町の宝安寺に移築再建されています。
薬師堂内には薬師三尊像が安置されており、薬師如来坐像は、別名「啼薬師(なきやくし)」または「児護薬師(こもりやくし)」とも呼ばれ、胎内には土中から発掘されたという古い仏面が収められているそうです。この薬師如来坐像には不思議な伝説が伝わっています。
ある年のこと、寺の裏山から毎日なんとも悲しげな赤ん坊の泣き声が聞こえてくるので開山が行ってみると、泣き声は古ぼけた墓石の下から聞こえ、金色の光がもれ、輝いていたといいます。そこで開山が経を読み袈裟で墓石を覆ったところ泣き声はやみ、翌日そこを掘ってみると立派な薬師の御顔が出てきたため、新たに薬師如来坐像を建立し、それを胎内に納め祀ったのが現在の本尊といわれています。この伝説から「啼薬師」「児護薬師」と呼ばれるようになったそうで、子育てにご利益があると云われています。
海蔵寺は、季節の花に彩られる花の寺として有名です。特に、山門を入って参道を少し上がったところにあるカイドウ(海棠)が有名で、見頃の4月初旬~中旬には、山門越しに赤っぽい花が目に飛び込み、本堂の屋根の緑青と庫裡の藁葺き屋根の両方とのコントラストが素晴らしく、実に見事な取り合わせです。また、本堂裏の心字池は本堂左手に回るとみることができます。山門の右手脇の底脱の井、薬師堂の脇を進むと十六の井があり、清らかな水を湛える水の寺でもあります。
十六ノ井は薬師堂裏のやぐら中に湧水をたたえた16個の穴があり、それぞれ直径が約50㎝から70㎝あり、弘法大師が掘ったとも言われ、次のような不思議な話が伝わっています。
再中興開山が住世のとき、観世音菩薩が禅師の夢枕に立って「来世の衆生信心つたなく、身に難病を受けて定業を終えずして死す。禅師、弘法大師に告げ、金剛功徳水をもって加持し、此の水を授け、薬を煎じて与へれば、悪病ことごとく祓い除くことが出来る故、願わくは、数度の天災のために埋もれた、此の井を掘りだして掃除をなせ。さすれば、清水湧き出て再び霊験があらわれんと・ ・・ ・」との告げがあり、禅師は、教えの通り掘りだすと井戸が現れ、観世音菩薩像も出てきたということです。そこで、窟中の水を加持し、衆生に与えたところ、霊験あらたかであったと扇谷山海蔵寺略縁記は伝えています。一方でこの岩窟は、納骨穴の跡ではないかとも云われています。入口から玄室までの羨道(せんどう)とよばれる通路部分は見られませんが、室町時代のやぐらには羨道がなくなってきていることから、やぐらだったと判断してもおかしくないとの説があります。