大寶寺

 大寶寺は日蓮宗の寺で、周りは常陸の御家人・佐竹氏代々の屋敷跡と伝えられています。兄・源義家とともにこれを鎮め、甲斐守となってここに館を構え、以来、佐竹氏の居館となりました。

本堂

 室町時代の応永六年(西暦1399年)佐竹義盛が出家し、屋敷のそばに多福寺を建立したのが前身となりました。その後、廃寺となっていたのを文安元年(西暦1444年)本覚寺開山の日出上人が再興し、多福寺の名を山号に残し、大寶寺と改めました。境内には新羅三郎源義光ゆかりの多福稲荷を祀っており、また裏山には佐竹氏の供養塔があります。

入り口
本堂

 新羅三郎源義光は、源頼義の息子で、新羅三郎と称し、母は平直方の女で、弓馬の達者な名将と言われていました。後三年の役では兄・源義家とともに戦い功をあげています。

 平安の時代、奥羽地方の出羽と陸奥を支配していた豪族、清原氏と安倍氏という豪族がいましたが、「前九年の役(永承六年(西暦1051年)~康平五年(西暦1062年))」と「後三年の役(永保3年(西暦1083年)~寛治元年(西暦1087年))」という奥羽地方を舞台とする二つの歴史に残る大きな合戦が相次いで起こりました。

 前九年の役は、永承六年(西暦1051年)、多賀国府にいた将軍源頼義、義家親子が出羽の豪族、清原氏の助けをかりて、陸奥の豪族、安倍氏を滅亡に追い込んだ「北方の王者」の交代劇ともいえる戦いでした。

 この戦いで、清原氏は、安倍氏の領地を合わせ奥羽に強大な支配力をうちたてましたが、二十年後複雑な血縁が絡み合う清原一族の間に内紛が生じ、この内紛を納めようと介入したのが源義家でした。長男の清原真衛が病死し、いったん収まるかにみえた内紛でしたが、今度は領土の配分をめぐって、家衡、清衡の異父兄弟が争い、妻子を弟家衡に殺された清衡は、源義家に助けを求めました。こうして、「後三年の役」と呼ばれる戦いの火ぶたが奥羽の地に再び切られました。

境内
庭園