葛原岡神社は、後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社で、明治維新後、南朝(吉野朝廷)が正統とされると、明治天皇が日野俊基に従三位を贈り、地元有志と全国の崇敬者の協力により明治20年(西暦1887年)に創建されました。
神社の南側には日野俊基の墓があります。現在では由比ガ浜地区の鎮守として信仰を集めています。
場所は、源氏山公園の一部、葛原ガ岡自然公園の一角にあり、周囲はソメイヨシノの木々に囲まれ、桜の名所としても知られています。園内には高さ2メートルもの源頼朝の坐像があり、扇ガ谷、佐助ガ谷一帯を静かに見つめています。また、源氏山は白旗山、旗立山とも呼ばれており、これは後三年の役に際し、八幡太郎義家が奥羽に向かう折、山頂に白旗を立てて戦勝を祈ったという伝説によります。
源氏山公園から、北鎌倉方面に下れば浄智寺、鎌倉方面に下れば銭洗弁財天、仮粧坂切通しを下れば海蔵寺に行くことができます。
仮粧坂切通しは、鎌倉七切通しの一つで、武蔵方面から葛原が岡を通って鎌倉へ入る主要な出入り口として、鎌倉の防御上重要な意味をもっていました。名の由来は、討ち取った平家の大将の首にここで化粧を施したという説と、多くの遊女が宿を張っていた等という説があります。
仮粧坂は、元弘3年(西暦1333年) 5月18日、新田義貞の鎌倉攻めの時、激戦地となったつづら折の坂道です。わずか80m程の坂道ですが幕府軍の抵抗が激しく、新田軍は、4日後の21日になっても突破できなかったと云われています。
太平記の巻第十新田義貞鎌倉中に攻入る事の条に、関戸にて軍を三方向に分け、一軍は極楽寺、二軍は巨福呂坂、三軍は新田義貞・義助が脇谷・堀口以下一族諸将の軍勢で前後左右を囲み、総勢五十万七千余騎で、仮粧坂から攻め寄せ、一方、鎌倉幕府軍は金沢時盛を大将とし、安房・上総・下野の軍勢三万余騎にて仮粧坂を護ったと述べられています。
境内には縁結びの石を配し、社務所ではハート形の絵馬、縁結びの鈴やお守り、恋みくじなどを扱い、縁結びのご利益のある神社として、若い人たちの人気の場所になっています。