ここは昭和53年(西暦1978年)に鎌倉時代を代表する武家屋敷跡として国指定史跡に指定されました。
市役所前を通る市役所通りを西に進み、3つめのトンネルを過ぎるとやがて右手にフェンスで囲まれた広い土地(約110,000平方メートル、30,000坪)があり、史跡を示す案内板や標識が立っています。
この辺は「タチンダイ」(舘の台がなまったものともいわれている)と呼ばれて、広い草地が広がっています。草地の右手の斜面に沿った道を奥に進むと、さらに草地があり、奥の崖際には10基ほどのやぐらがあります。このあたりからは、建物の跡を示す敷石らしいものや、鎌倉時代の陶磁器、硯、瓦などが出土しました。この辺りには北条政村をはじめ有力な北条氏の屋敷があり、防衛の役割もあったといわれています。
北条政村(1205~1273)は第二代執権北条義時(1163~1224)の子で、評定衆、連署(執権の補佐役)を経て、第七代の執権になりました。1268年に蒙古の国書が届き、国難に立ち向かう時代にはいります。時宗が執権になると(同1268年)連署となりこれを補佐しました。和歌の道に通じ、政村の屋敷では和歌の会がたびたび催され、康元元年(西暦1256年)には第六代将軍宗尊親王などが訪れたと吾妻鏡にあり、文化的な活動の拠点のひとつであったようです。
ここからさらに西には法華堂跡といわれるところがあり、そのあたりは御所之内と呼ばれています。政村の建てた常盤御所にちなむといわれています。
さらに八雲神社・円久寺方向に進むと連署北条義政屋敷跡と呼ばれるところがあります。円久寺の右手から細い道を入りますが、特にみるべきものは残っていません。北条義政(1242~1281)は第三代執権北条泰時の弟の北条重時の子で、連署として活動しました。義政も和歌に秀でていました。名越に屋敷があったので、ここは別荘と考えられています。