正式名称は行時山光則寺です。江ノ電長谷駅下車、長谷四角を大仏方向へ向かい、1本目の小道を左折すると少し広い参道にでます。その先に朱塗りの山門が見えてきます。 入り口には、境内の略図と植えられている草花の名前が詳細に書かれているチラシが置かれており、ありがたいお寺の配慮です。
山門を入ると、正面に「立正安国論御勧由来」の大きな石碑と説明の碑がたっています。その先には、「師孝第一」(日蓮聖人が弟子の日朗上人の献身的な奉仕を称えたもの)と彫られた額が掲げられた本堂があり、日蓮宗のお寺であることがよくわかります。本堂には日蓮聖人、日朗上人の坐像ほかが安置されています。本堂右前の樹齢200年、高さ7メートルの海棠の古木は大変に有名で、市の天然記念物にも指定されています。4月の開花の時期には多くのかたで賑わいます。
また、本堂左手には詩人宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑があります。この碑は、宮沢賢治が法華経の熱烈な信者であったことに因んで、信者の浄財をもとに作られたもので、宮沢賢治とお寺との直接の関係はないそうです。さらに境内の右側、山際に沿って階段を登りきると日朗上人が幽閉されたという土牢跡も残っています。
開基は北条時頼の家臣宿屋光則、開山は日朗上人です。宿屋光則は日蓮聖人が佐渡に流罪になっている間、弟子の日朗上人を土牢に閉じ込め、監視するよう命じられ実行しています。しかし、後に、自身も日蓮聖人に帰依し、弘安年間(西暦1280年頃)には自分の屋敷を寺に改築するまでになったと云われています。
日蓮聖人が「立正安国論」を幕府の寺社奉行の宿谷行時・光則親子の手を経て北条時頼に奏進したのが文応元年(西暦1260年)で、日蓮聖人はこの内容によって幕府から迫害を受け、龍の口法難後、文永8年(西暦1271年)に佐渡流罪を言い渡されます。
日蓮聖人は、弟子の日朗上人が宿谷光則邸の土籠に幽閉されるのを気遣い、「土籠御書(つちのろうごしょ)」を書き残して流刑地佐渡に赴いたと言われています。日蓮聖人は佐渡流罪を許され、その後鎌倉滞在、文永11年(西暦1274年)身延山に入りますが、この間に宿谷光則は日蓮聖人に帰依し、自分の屋敷を光則寺として創立しました。
現在の本堂の躯体部分は慶安3年(西暦1650年)建立で、石州(島根県)浜田の城主古田兵部少輔重恒の後室大梅院常学日進大姉が多額の寄進をし、本堂・山門・庫裡の建立、修理をしたと言われています。大梅院が再興したため光則寺は大梅寺とも呼ばれていました。更に享保10年(西暦1725年)から4回、堂宇の修理のため、寺宝の仏像を、江戸の浅草や下谷・深川などで出開帳し、改修資金を集めたとの記録があります。