五所神社の鎮座地は、古くは乱橋村と材木座村とに分かれており、乱橋村には三島神社、八雲神社、金刀比羅社の三社が鎮座し、材木座村には諏訪社と見女八坂社の二社が鎮座していました。
相模風土記稿には「三島社村持」とあり、村の中心的社であったため、明治6年(西暦1873年)村社に列格され、 明治22年(西暦1889年)乱橋村と材木座村が合併して西鎌倉村大字乱橋材木座となった後、明治41年(西暦1908年)7月に、元々あった三島神社に八雲神社、 金毘羅社、 諏訪神社、見女八坂社を合祀し、以来、五所神社と呼ばれるようになりました。
境内には、感応寺にあったものだといわれる鎌倉時代の板碑(いたび)、鎌倉市指定有形民俗資料となっている 庚申塔、そして摩利支天像などの石碑が立っています。
板碑とは、主に供養塔として使われる石碑の一種で、板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれるそうです。
板碑には弘長2年(西暦1262年)の銘があり、ほぼ完全な姿で残った鎌倉期板碑の標本として、国の重要美術品に指定されています。
庚申塔については「五所神社の庚申塔」銘打たれた案内板が立っており、15基についてそれぞれの年代が記されています。主尊別に、帝釈天1基、阿弥陀如来像2基、青面金剛像4基、猿田彦神1基、庚申字7基あり、それぞれの説明がされています。
しかし、実際には、もう一基庚申字があり、全部で16基の庚申塔が、明治41年(西暦1908年)に、材木座の各場所から集められ、造立者の名前からどこにあったものかが分るように記録されているとのことです。その中の一つに、寛文12年(西暦1672年)建立の鶏をつけた舟型庚申塔があります。鶏は寛文のころからつけられるようになったとのことで、市指定有形民俗資料になっています。