正式には、甘縄神明神社と言い、和銅3年(西暦710年)行基が草創し、豪族・染谷時忠が創建した鎌倉でもっとも古い神社と言われています。
御祭神は天照大神で、源頼義が神社にお祈りしたあと、ここで源義家が生まれたと言い伝えられていることから、子宝の御利益がある神社としても知られています。
永保元年(西暦1081年)、源義家が社殿を再建、それ以降、源氏の氏神となったそうで、源頼朝も社殿を修理したと「吾妻鏡」は伝えています。
染屋時忠は、藤原鎌足の玄孫に当たり、南都東大寺の大仏を建立した良弁僧正が父で、永らく鎌倉に居住し、東8カ国の総追捕使として東夷征伐において功績を残し、由比の長者とも呼ばれていました。
良弁僧正は相模の出であることは複数の資料から確かなようですが、染屋時忠については、相模国である鎌倉や大山にいくつかの伝承が残っているだけでで、実在の人物かどうかは不明です。
神社の近くには、鎌倉時代初期の御家人安達一族の邸宅があった所で、北条時頼の母・松下禅尼の実家であり、時宗の産湯の井戸が神社の境内にあります。
安達氏は、建保6年(西暦1218年)景盛が秋田城介に任ぜられ、以後、鎌倉期を通じて秋田城介を世襲しました。弘安8年(西暦1285年)の霜月騒動の際に、当時の御家人の筆頭であった泰盛が、御内人(北条氏得宗の直属家臣)・平頼綱軍に攻められ、激しい戦闘の末、安達一族は滅ぼされました。
神社近くには 川端康成記念館(非公開)があります。 川端康成は昭和21年(西暦1946年)にそれまで住んでいた二階堂の谷戸の蒲原有明邸から長谷の家に移り住み、昭和24~29年(西暦1949~54年)にかけて『山の音』(やまのおと)を執筆しています。 また、参道の反対側には鎌倉市の重要建築物等である加賀谷邸(内部非公開)があります。