龍口寺

 寂光山龍口寺は日蓮聖人(1222~1282)が亡くなって50年程のち、弟子の僧日法がこの地を「龍ノ口法難の霊跡」として伝えるため日蓮聖人の像を自からつくり、一堂を建立し祀ったことが始まりといわれています。

本堂

 室町時代には龍口院と呼ばれ、龍口寺の名前は戦国時代になってからとのことです。1601年江戸の本門寺十三世日尊上人のもと、島村采女(うねめ)という津の住人で熱心な信者が土地を寄進し、寺の基礎が出来上がったといわれています。

 江ノ電が走る広い通りから、左手にある日蓮聖人法難刑場旧跡をみながら境内に向かうと、「龍の口」の額のかかる朱塗りの仁王門があり、一対の仁王様が迎えてくれます。(昭和40年代の建立)

仁王門
仁王門

 そのさきの石段を登ると江戸末期建立の山門があり、表に「龍口寺」、裏に「寂光山」の額を掲げます。山門は中国の故事を題材にした彫刻で飾られており、一見の価値があります。山門を過ぎて、左手に妙見堂などを見ながら進み、次の石段を登るといよいよ本堂が目前です。その前の左手には「御霊窟」というほらあながあり、日蓮聖人が龍ノ口法難の際、処刑を待つ間ここに入れられた土牢といわれています。中には日蓮聖人の像が祀られています。一方、本堂の右手前には鐘楼があります。

山門
鐘楼
妙見堂

御霊窟

本堂(祖師堂)は天保三年(西暦1832年)の建立で、間口12間、奥行き15間の堂々としたものです。堂内に入り拝観することができます。中央に日蓮聖人像が祀られ、その脇には、日蓮六老僧(日蓮聖人が死にあたって後を託した6人の高弟:日昭、日朗、日興、日向、日頂、日時)の像、鬼子母神、加藤清正公像などが祀られています。また、堂内には「敷皮石」と呼ばれる石が置かれています。日蓮聖人が処刑される際に、皮が敷かれたこの石に座り法華経を唱えたといわれています。

 本堂の左手から山に向かう石段があり、麓に経八稲荷があります。石段を登った先は、身延七面山の七面大明神を祀った七面堂です。

経八稲荷
七面堂

 ここから、さらに左手、斜面を進むと、白く塗られた仏舎利塔があり、金色の釈迦如来像が安置されています。ここから江ノ島方面が眺められます。

 七面堂の前にもどり、本堂の裏手の東側を見ると、五重塔がそびえています。明治時代の建立ですが、横浜の三渓園と共に貴重な建造物です。

仏舎利塔

五重塔

 日蓮聖人は鎌倉幕府や他の宗派を激しく批判したため、数々の災難に会います。なかでもとくに大きな災難は四大法難(松葉谷・伊豆・小松原・龍ノ口)と呼ばれています。

 最初のものは、文応元年(西暦1260年)松葉谷の法難です。(現在の)長勝寺、安国論寺、妙法寺のいずれかあたりにあった日蓮聖人の草庵が念仏信徒に襲われ、(猿に導かれて難を逃れ)下総に逃れたものです。やがて鎌倉にもどった日蓮聖人でしたが、弘長元年(西暦1261年)伊豆の伊東に流罪になりました。さらに文永元年(西暦1264年)に国元に帰った日蓮聖人は、小松原というところで、念仏信徒に襲われます。これで3回目です。

 4回目は文永八年(西暦1271年)です。当時日本は内乱や蒙古襲来の脅威が広がり、更には飢餓や疫病など悲惨な状況にあり、それを憂いた日蓮聖人は「立正安国論」を幕府に奏上しましたがこれを幕府批判だとされその年の9月12日に逮捕され、馬に乗せられ龍ノ口に到着。そこで斬首される瞬間、江ノ島の方向から閃光が流れ、処刑人や周りのものも目がくらみ、処刑は中止になりました。その後佐渡に流されることになります。龍ノ口の法難です。文永十一年(西暦1274年)赦免されて鎌倉に戻ります。その年身延山に向かい、そこでの活動ののち、弘安五年(西暦1282年)に下山。池上の門徒の屋敷でなくなりました。