天照山千手院と号し、光明寺の塔頭のひとつで、もとは光明寺に各地から集まってきた学僧達が泊った寺僧寮であったと伝えられています。寺は関東大震災で崩壊し、文献も散逸してしまったので、創建の年や開山、開基は不明です。浄土宗の本尊である阿弥陀如来像を安置し、千手観音を祀り「観音堂」と呼ばれ、専修院と称して貞亨年間(西暦1684~88年)までは念仏の道場として盛んでありました。その後、学僧の数も減ったため、学頭と呼ばれた住職は、近所の子供たちに読み書き、そろばんなどを教えるようになったそうです。
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明治15~26年(西暦1882~93年 ) の頃は、「桑楊学校」の教場となって材木座の子供たちが通学するようになりました(「鎌倉子ども風土記」)。
鎌倉三十三観音霊場第二十番札所です。
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千手院の境内には松尾芭蕉の句が刻まれた寺子屋の記念碑があります。記念碑には『春もやゝ 気しきとゝのふ 月と梅』とあり、案内によれば「春とは名ばかりで、まだ寒い寒いと思っているうちにいつか梅が咲き、月もおぼろにかすんで、ようやく春らしくなってきた」という意味とあります。
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