来迎寺 (材木座)
寺の正式名称は、隋我山能蔵院来迎寺(ずいかざん のうぞういん らいこうじ)と号し、開基は源頼朝で、源頼朝に加勢して畠山重忠の軍勢と闘い89歳で戦死した三浦半島衣笠城主・三浦大介義明の霊を弔うため、建久五年(西暦1194年)に真言宗能蔵寺を建立した時に始まります。しかし、開山上人は明らかではありません。
また、時宗(じしゅう)に改宗した時期も定かではありません。おそらく、頼朝が亡くなった後、音阿上人が改宗し、名前を来迎寺と改めたと思われます。能蔵寺から起算すると実に八百余年の歴史があります。
来迎寺は鎌倉三十三観音菩薩札所十四番で子育て観音が祀られており、この観音様に念ずれば、必ず知恵福徳円満な子どもを授かるとして、昔から多くの信者に信仰されています。以前、本堂の裏側の山頂には観音堂がありましたが、昭和11年(西暦1936年)国の指令により「敵機の目標になるから」という理由で取り壊されました。
さて、時宗の総本山は、神奈川県藤沢市西富、藤沢山清浄光寺通称遊行寺で、開祖は一遍上人です。今から七百年余り前、文久11年(西暦1274年)、熊野権現澄誠殿に参籠、熊野権現から夢想の口伝を感得し、「信不信浄不浄を選ばず、その札を配るべし」の口伝を拠り處に、神勅の札を携え西は薩摩から東は奥羽に至るまで、凡そ16年、日本全国津々浦々へ、念仏賦算の旅を続けられました。その間寺に住されることなく亡くなるまで遊行聖に徹し、その教法の要旨は『今日の行生座臥擧足下平生の上を即ち臨終とこれを心得称名念仏する宗門の肝要となすなり』とある「念仏によって心の苦しみや悩みは、南無阿弥陀仏の力で救ってくださる」ということです。
本尊阿弥陀如来(弥陀三尊)は三浦義昭の守護佛と伝えられ、「相模風土記」によると「宗祖一遍上人像、三浦義明の像有り」とあるが明治5年(西暦1872年)材木座大火の延焼で焼失した。また、「三浦義明の墓は五輪塔なり、ここに義明の墳墓あるはその縁故知らざれど、思うに冥福を修せんがために寺僧が造立せしならん」とあります。
本堂は公開されていませんが、本尊は阿弥陀三尊像、ほかに子育て観音が祀られています。本堂向かって右手には、大きな五輪塔が2基あり、三浦義明と多々良三郎(三浦一族の若者)のものと伝えられています。また本堂裏手には、100基を超す小さな五輪塔が並んでいます。