成就院は真言宗大覚寺派の寺で、正式名称は普明山法立寺成就院、開基は鎌倉幕府第三代執権の北条泰時で、弘法大師が護摩供養をした地に、不動明王を本尊にひらかれました。本堂裏山は霊仙山(りょうぜんざん)と呼ばれ、鎌倉時代には真言律宗極楽寺の支院「仏法寺」があり、忍性が雨乞いをしたと伝わる池とともに寺の遺構が発掘され、また、五合枡(ごんごうます)と呼ばれる枡形遺構があります。
寺の建立は、承久元年(1219年)で、北条泰時が京都より高僧を招き、北条一族の繁栄を願ったと言われています。しかし、新田義貞の鎌倉攻めの戦火によって寺は焼失し、奥の西が谷に移っていましたが、江戸時代の元禄期(西暦1688年~1703年)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在に至ったと云われています。
本尊の不動明王は、真言宗の本尊・大日如来の化身で、右手に剣、左手に羅索をもち、背後には火焔を背負い、顔は忿怒の厳しい姿をされ、剣と羅索で、人々のもつ煩悩を裁ち切り、更に火焔で焼き清め、慈悲の眼で人々を見守っていると云われています。縁起によると、平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師がこの地を訪れ、数日間に渡り護摩供・虚空蔵求聞持法を修したと云われています。
護摩とは、サンスクリットのホーマを音訳して書き写した語で、元来、インドでは紀元前2000年ごろにできたヴェーダ聖典に出ているバラモン教の儀礼で、紀元前5世紀ごろに仏教化したと言います。護摩で、炉に細く切った薪木を入れて燃やし、炉中に種々の供物を投げ入れて行なう祈祷は、火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあずかろうとする素朴な信仰から生まれたものだそうです。護摩には、火の中を清浄の場として仏を観想するために、護摩壇に火を点じ、火中に供物を投じ、次いで護摩木を投じて祈願する外護摩と、自分自身を壇にみたて、仏の智慧の火で自分の心の中にある煩悩や業に火をつけて焼き払う内護摩とがあります。
本堂には本尊の不動明王の他、大日如来、聖観世音菩薩(鎌倉33観音21番札所)、弘法大師座像、地蔵菩薩などが祀られています。
文覚上人荒行の像をみて触発された日本のロダンといわれた明治時代の彫刻家の荻原守衛は「文覚」という像を制作しました。その模刻像が本堂の脇に置かれています。境内には、ほかに(本尊ご分身の)不動明王(縁結び)、子安・子生み地蔵などがあります。
成就院は、江ノ電長谷駅・極楽寺駅どちらからも徒歩10分程のところにあり、参道の石段は、人間の煩悩の数と同じ108段で、石段の上から由比ガ浜の海岸が一望できます。また、般若心経の文字数と同じ262株の紫陽花が植えられており、梅雨の季節には紫陽花が咲き誇り、明月院と並ぶ鎌倉の紫陽花の名所です。