鎌倉の腰越にあるこの寺は、天平16年(西暦744年)僧・行基が開山した京都大覚寺派(真言宗)のお寺です。奈良時代、関東に悪い病気が流行していたとき、聖武天皇にこの病気を排除するよう命ぜられた行基が、鎌倉へ来て、前に広がった海原と後ろの山並みがとても美しいこの場所で祈りをささげると不思議に病気がおさまったといわれ、功徳をたたえてここに寺を建てることにしたといわれています。
また、この寺は、源義経の腰越状で世に知られた寺で、源義経を語る際、絶対に落とすことは出来ない寺です。一の谷、屋島、壇ノ浦と次々に平家の軍を破って、平家を滅ぼし、元歴2年(西暦1185年)、平家の捕虜を連れて鎌倉の兄・源頼朝もとに向かいましたが、頼朝は義経を鎌倉に入る事を許しませんでした。
しかなく、義経は腰越の満福寺に逗留し、一通の嘆願状(腰越状)を書き、頼朝の信望の厚かった公文所別当・大江広元に差し出し、申し開きをしましたが、それも空しく、ついに鎌倉の門は開かれませんでした。義経はそのまま京へ帰り、その後、藤原秀衡を頼って奥州平泉へ落ち伸びて行きました。4年後の文治五年(西暦1189年)、秀衡が亡くなると、その子泰衡は頼朝の義経討伐命令に屈して、義経一党を襲撃したため、義経は平泉高館の持仏堂で自刃しました。
現在、このお寺には義経が手を洗ったといわれる井戸、弁慶の腰掛石、腰越状の下書きと実物大の版木、それから弁慶の椀・錫杖、義経絵巻襖絵など、義経にまつわる品々があり、訪れる価値がある寺のひとつです。
しかし、義経の平泉における死に疑問を抱く人々は鎌倉時代からあったようで、義経生存説(衣川自害の疑問)、義経北行伝説、義経・成吉思汗説と百家争鳴、かのシーボルトも興味をもっていたようです。
義経生存説を匂わせる最初の記述は、鎌倉幕府の公式日記ともいわれる「吾妻鏡」で、それによると、義経の死の1年後、鎌倉に「義経軍が攻めてくる」という噂が流れ、鎌倉に緊張が走ったことが書かれています。このことは、義経は「生きているかも知れない」という懸念が鎌倉武士の中にあったことを示しています。