龍宝寺

 正式名は陽谷山龍寶寺で、鎌倉では寺院数が少ない「曹洞宗」の代表的なお寺です。場所も北鎌倉~鎌倉にかけてではなく、大船駅から見える観音様の裏手になります。

本堂

 開山は泰絮宗榮大和尚、開基は玉縄城主北條綱成で、他のお寺の創建より遅い、戦国時代に小田原城を中心に関東一帯に勢力を張った後北条の一族の手になります。

 この寺のはじまりは、玉縄城2代目城主北条綱成が文亀3年(西暦1503年)に建てた瑞光院で、天正3年(西暦1575年)玉縄城4代目城主北条氏勝が3代目城主氏繁を弔うため現在の地に移し、氏繁の戒名から寺名を「龍寶寺」として建立、以後、玉縄北条氏の菩堤寺として栄えました。

山門
山門

 昭和26年(西暦1951年)火災にあい、山門と鐘楼だけは焼け残りましたが、その殆どが焼けてしまい、本堂などは昭和34年(西暦1959年)に再建されました。

 境内は広く、茅葺の山門をくぐり、ゆっくりと散策しながら、一段と高いところにある本堂に向かいます。右手に玉縄民俗資料館があり、玉縄城跡の模型や農機具を中心に生活に使われた昔の諸器具を見ることができます。

本堂
玉縄民俗資料館

 その先には国の重要文化財に認定された旧石井家住宅があります。石井家は後北条時代の地侍の出で、近世には名主をつとめたと伝えられる上層の農家です。外廻りは庇(ひさし)や縁をまったくもうけず、大部分を土壁とした閉鎖的な構えです。住宅は鎌倉から甲州に至る甲州街道筋である鎌倉市関谷にあったもので、17 世紀末頃の建築と考えられます。構造は「ひろま」の奥に2部屋が配される三間取り平面で、古民家の中でも年代の古い代表的遺構の一つで、この住宅は神奈川県下に例の多い「三間取り四方下家造り」の農家の典型といわれています。

 左手に庚申塔、そこからさらに左手奥に入ると、新井白石の碑があります。元禄年間(1688~1708年)には、新井白石が植木村(知行二百石)を治めており、朝鮮より幕府の慶賀に来日した朝鮮通信使節を迎えるために、藤沢宿に来た際、龍宝寺に泊まり、藤沢より正式の行列を整えて、江戸に赴くようにしたといわれており、また、その因縁によってか、享保10年(西暦1725年)室鳩巣撰文の「朝散大夫新井源公碑銘」を刻んだ石碑があります。

 参道にもどり進むと本堂が見えてきます。本尊は釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩が両脇に並びます。本堂の壁面の上部には、檀家の寄付によるものも含め五百羅漢500体の木造が並べられています。山中にあった玉縄城主三代の墓は、本堂の左手に移され、新たな装いで安置されています。

玉縄城主三代の墓

引用:鎌倉のお寺さん(30)