大船観音寺

 鎌倉の入口、大船の駅から望むことの出来る、白衣の観音様の境内に、その思いを託した原爆の火の塔が建立されていることは、意外と知られていません。

 大船観音寺は、曹洞宗大本山總持寺の御直末のお寺で、巨大観音像(大船観音)で知られています。白衣をまとった観音像は、高さ25.39m、幅18.57m、重さ1915tの大きなもので、頭上には化仏といわれる阿弥陀如来像をのせ、胸に瓔珞(ようらく)とよばれるかざりを付け、額の中央にあるものは、白毫(びゃくごう)とよばれ、光明の世界を照らすといわれています。

参道
山門

 大船観音は、遠くから見ると、木立に囲まれた立像かとも思えますが、高台の上に建っているのでそう見えるのであって、実は胸像の観音様であり、背後からは、胎内に入ることができます。

平和祈念塔
戦没者慰霊碑

 大船観音は昭和4年(西暦1929年)、地元有志の発起により護国観音として築造が開始され、昭和9年(西暦1934年)には輪郭が出来上がっていました。その後、資金難のために工事は中断、そのまま戦争に突入し戦局の悪化により、20年以上放置されてきましたが、第二次世界大戦後の昭和35年(西暦1960年)4月に完成しました。

 原爆記念碑は、昭和41年(西暦1966年)に結成された「神奈川県原爆被災者の会」によって、被爆25周年の記念行事として、原爆犠牲者の慰霊碑建立の計画が立てられ、大船観音の境内に建立されました。

 昭和44年(西暦1969年)8月、会の関係者が、この計画を携えて、広島、長崎を訪問して要請した結果、広島からは、原爆資料館のケロイド状瓦、爆心地西蓮寺の地蔵土台石(約200kg)などを、長崎からは浦上天主堂にあった被爆石(約50kg)の寄贈をうけました。

鐘楼
慈光堂

 この年の10月に行われた第3回神奈川原爆被災者慰霊祭の日に、被爆者を初め遺族や、被爆二世の人達が2つの重い石を橇に乗せ、コロを使って参道の坂道を観音境内まで引き上げ、昭和45年(西暦1970年)2月には石碑の起工式が行われました。ケロイド瓦など被爆遺品の一部は地下に埋蔵、同年4月の大船観音例祭の日に除幕式が行われました。以後、毎年9月末に、この慰霊碑の前で神奈川県在住原爆死没者の「慰霊祭」と「追悼のつどい」が行われています。

 慰霊碑は、正面が西方の広島、長崎、ビキニの方を向き、周囲の放射状模様は原水爆禁止のシンボルを、土台石は三つの原水爆投下を、その上に乗った湾曲した部分は、礎石を橇で運んだ様子を表しております。

 平和祈念塔は、昭和60年(西暦1985年)、被爆40周年を記念して建立されました。「核兵器もない/戦争もない/平和な世界を」の碑文は、神奈川県内在住の被爆者から募集した文の中から選ばれ、当時の神奈川県知事・長洲一二氏が揮毫されました。

 原爆の火の塔は、原爆投下の数日後、広島市の書店の地下室に積まれた本の一部が燻っていたのを発見し、自分のカイロにその火を移して九州の自宅に持ち帰られ、原爆の残り火「平和の灯火」として、福岡県星野村役場で絶やすことなく燃え続けていたものを、被爆45周年の記念として分火して戴き、建立しました。「火の塔」は花崗岩の造りで高さ2.5メートル、平成2年(西暦1990年)9月の慰霊祭で除幕式が行われ、それ以来「原爆の火」は日夜燃え続けています。