正式名称は、飯盛山仁王院青蓮寺で高野山真言宗のお寺です。開山は空海(弘法大師)、長禄年間(西暦1457~9年)に善海によって再興されたといわれています。本尊は弘法大師空海(鎖大師)で、一般に広く「鎖大師」の通称で親しまれています。
鎖大師(木像弘法大師坐像)は、目は玉眼、爪は水晶で造られており、鎌倉時代の貴重な裸形彫刻として重要文化財に指定されています。
江戸時代初期の文献「新編鎌倉志」には「弘法自作の木造あり。鎖大師というなり。鎖を以って膝を屈伸するように造る故に名づく。」と記載されています。手足が動くため、纏われている絹の衣を着替えることができ、大きさも等身大で、大師信者とお大師様の心が鎖のように強く結ばれますようにという願いが込められています。
鎖大師は、弘仁7年(西暦816年)嵯峨天皇の命により弘法大師が諸国行脚の旅に出る時、天皇との別れを惜しんで、等身大の像を鏡に向かって作り、着ていた衣服・法衣・念珠・五鈷などをつけ、天皇に献上したといわれています。天皇が亡くなった後、大和(奈良県)の岡寺に移され、さらに後に鎌倉鶴岡八幡宮に移され、等覚院の蓮華定院に安置されました。
明治維新の神仏分離の時、八幡宮の所属する近くの松源寺に移され、その後、寿福寺を経てこの青蓮寺に移されたと伝えられています。
弘仁10年(西暦819年) 弘法大師が東国を巡暦された際、鎌倉にとまって7日間の護摩の秘法を修されたとき、美しい天女(江ノ島弁財天)があらわれ護摩の助法や斎食の給仕をしたそうです。大師は無事修法を終えると、天女は一粒の仏舎利を大師に奉り、その姿は忽ちのうちに見えなくなりました。翌朝眼を覚ますと、側の池には青色の美しい蓮華が咲きほこっていたといわれています。当寺はその故地に因み、飯盛山青蓮寺の寺名がつけられています。
境内は広く、彫物で飾られた山門を入ると右手に鐘楼、ついで受付のある庫裏、そして鎖大師が祀られている本堂があります。一方、左手には修行大師像、不動明王、愛染明王が祀られています。奥には弘法大師にちなむ青い蓮の花が開いたと伝えられる池があります。